忍者ブログ

   

竹取の翁

高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」を観ました。

劇場まで観に行ったのですが今回二回目。観たい観たいと思っていたのですが今回初めてDVDを借りました。
今まで観たくても観なかった理由は観ると辛いから。
美しい音楽とアニメとは思えないような日本画的映像。思わず溜息をついてしまうような作品なのですが。いかんせん、内容が辛いッ!
嫌いじゃなくてむしろ好きなのですがとにかく辛い。
小さなボタンの掛け違いから一人の自由な女性が不孝になっていく様が淡々と描かれます。誰が悪かったんだよという内容。
とっても感動。ですがみぞおちにズシンと拳を叩き込まれたような気分になります。
ほんっっっとうに良い映画なのですがキツイのです。

この映画の竹取の翁は良い父親でしょう。たけのこを愛していたことは確かでしょう。良い父親であろうとした姿に偽りはないでしょう。
人の好い好々爺を都に誘ったのは、竹から溢れ出た小金と美しい着物でした。
翁はその現象を天命であると解釈し、たけのこを高貴な姫とすることを画策します。

結果、たけのこからかぐや姫と名を変えた少女の運命は悲劇的なものとなります。

もしこの映画がループモノだとするなら、竹から溢れた小金と翁の決定が大きな分岐点となることでしょう。
どうすればよかったんだ?その答えは映画を観た人の心に委ねられているのでしょう。
だからこそ辛い。そして面白いのです。



拍手

PR

学と遊

先日、松尾芭蕉が北関東を訪れた場所や文章を時系列にしたパンフレットを見つけた。
なかなか面白いので部屋に貼ってたまにぼんやり眺めている。
奥の細道で有名な松尾芭蕉には弟子の曾良という随行者が居て芭蕉の旅に付き添い、日々の雑事を記録している。
パンフレットには時系列で曾良の日記も載っており、内容を比べてみると非常に面白い。
芭蕉が梢だの緑だのひたすら抒情的な文章を書いているそばで、どこそこに泊まっただの、金はいくらかかっただの、急に雨が降ってきただのとにかく現実的で生々しい。
もちろん元の本を読破したわけではないので全てその限りでもないのだろうが、旅情を美しく描いたといわれる奥の細道にはそんな裏話があったんだなぁと感心した。

幼獣は他の兄弟や母親との遊びで社会性を身に着ける。
子狐が草叢で兄弟に飛び掛かり首筋を甘噛みする。それは親狐の視点からは学びであり、子狐の視点からは遊びであろう。その行為は成獣となった時、獲物に飛び掛かり喉笛を嚙みちぎって絶命させる事と地続きだ。
もしかしたら学びとは遊びの随行者であるのかも知れない。いや、逆だろうか…。

壁を睨み付けてそんなことをぼんやり考えていたらだんだん暑くて苦しくなってきた。そういえば今日は猛暑日らしい。私は溜息をつきながら蒸し暑い廊下へ出て冷たい麦茶を飲むためにキッチンへと向かった。


拍手

狂気の伝染

狂うと言う字は獣辺に王と書く。
王が狂気を孕み、臣下を惨殺していくというのはよく聞く筋である。
それをされる臣下は下剋上を企てていたり、本当の忠臣であったりする。
古代社会では王とは神と同義であるが任期の後は神への生贄として無残に自決して黄泉に下っていたらしい。
また王は好んで道化を飼った。ブラックジョークでもって王に箴言することが彼らの仕事だった。

狂気は人間が社会生活を営む際に生じた原始の本能との間のノイズである。
人間は肉を食いながら家畜を愛で、野を焼きながら自然の素晴らしさを説き、戦争をしながら平和を求める。
狂気は人間という一種族が社会を構成して生き残ろうとしたために生じた必然の帰結であり、そうせざるえない種族としての欲求だろう。
これを日本語では穢れと言う。
穢れは血から生じる。女人は川上で経血のついた布を洗って、それが仏に備える水に混入するから女人は全て血池地獄に落ちるという乱暴な仏説も存在する。
一方、仏僧は血が大量に流れるであろう人間界の戦争にも加担していた。これには一殺多生という四字熟語がいかにもそれらしく対応していたのであろう。
とにかく、血は避けられるものである一方、求められるものでもあった。
定期的に起こる革命は大地を赤く染めた。革命は集団的狂気である。
革命前夜、日本では大量の札が宙を舞い、ええじゃないかと叫ぶ民衆が道路を占拠した。

生活には血が付き物であり、血には狂気が付き物であり、それは人間にも「憑く」ものなのかも知れない。王は多くの血を流すために狂気に伝染しやすいのかも知れない。

「憑かれた」時、狂気のノイズを解くのは、栄誉ある王自身とは正反対の卑しい道化による屈託のない皮肉だ。だがそれは裏を返せば、疲れた親に子が見せるような愛情のこもった笑顔であったのかも知れない。


拍手

おさるの浅知恵

暑い日と寒い日が交互にやって来ている。
いつの間にか半袖で過ごしている。
季節がどう変わろうともやることも目的も変わらない。
気怠さはこの湿度のせいか。くだらない事をグダグダ考える時がある。

自分が死ぬまでに不老不死の技術は完成するだろうか、完成したとしても不死になりたいだろうか。
不病のオプションが付いているなら考えないでもないが、死ねないというのも中々辛そうだ。
だとしてもこの世の贅沢を堪能しないままに死ぬのも馬鹿らしい。
下品だとわかっていても一度は金箔のちりばめられた寿司でも食ってみたいものだ。
ジャグジーで美女を侍らせるのも一回やってみたい。札束風呂は汚いから嫌だ。
書き出してみて思ったが自分の想像する贅沢のなんと矮小なものか。
幼児が乗ったことのないジェットコースターに乗ってみたいと泣き叫ぶのと同じだろうと思う。
実際に成長して乗ってみたところで「こんなものか」と思うのが関の山だ。
だけれども想像の中だけの欲望が人の心を魅惑するのは紛れもない事実でどうやってもこぼれた砂糖菓子と巣を往復してしまうのも蟻が蟻である確証でしかないのだ。


こうやって文字を弄んで、時間を浪費するのもこの纏わり付く湿度のせいかもしれない。





拍手

狭い空

一所懸命なにかをやっている時、ふと虚しくなることがある。
死んでしまえば全て同じなのに何をこんなに張り切っているのだと。
出来ればなるべく張り切りたくない。夢中になっている時にふと馬鹿馬鹿しくてたまらなくなる。
数年前、病気でしばらく自宅療養をして寝ていた。病気のせいなのかどうやってもやる気がでない。当時は生涯の目標を喪失して文字通り何も出来なかった。

その時、なんとかやる気をだす方法を編み出した。自分の葬式の場面を思い浮かべるのだ。まず病院で死亡が宣告される。周囲の家族は押し黙り悲しむが、裏では葬式の準備を迅速に整える。私は鼻に綿を詰められて少々ユニークな相貌になる。
私は火葬されて炉の中で水分が抜けてスルメのように曲がり縮む。同じ屋根の下でで見知った顔が酒盛りで頬を赤らめる。
骨壺にガシガシと詰められて手持ちのサイズになった私は無事埋葬され、そしてそのうち誰も自分を思い出すものはいなくなるのだ。
今書いてみるとホラーでしかないが、当時は何故かこういう想像をして元気を出していた。
元々、辛くても自殺する勇気もない人間だから、想像の中で自分の死を弄んで楽しんでいたのだ。

今は病気も治り、日々の活力にも溢れている。目標も少しずつ達成し始めて喜びもある。だが、ふとした瞬間にとてつもなく虚しくなる。それはあの土の中で過ごしているような数年間があったからだろうと思う。
溜め息をついて窓の外を見つめると、あの何も出来ないで寝ているしかなかった狭い空を、いまでも思い出すのだ。

拍手

プロフィール

HN:
古倉 のぶ雪
性別:
男性
自己紹介:
まいにち 
かんがえたことの 
きろく

創作で漫画を描いています。
漫画等に関するご連絡はお問い合わせまでお願いいたします。

《願望》
世の中は
いつも月夜と米の飯
それにつけても金の欲しさよ

pixiv

最新記事

Copyright ©  2016-2017 kokura nobuyuki.All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]